名称 第48回李相佰盃⽇・韓⼤学代表バスケットボール競技⼤会
主催 大韓民國籠球協會
韓國大學籠球聯盟
公益財団法人日本バスケットボール協会
一般財団法人全日本大学バスケットボール連盟
主管 大韓民國籠球協會
韓國大學籠球聯盟
期日 2025年5月16日(金)〜18日(日)
会場 スウォン(水原市)予定
競技規則 Official Basketball Rules 2025
競技方法 2チームによる3回戦制
・勝率の大なるチームを優勝とする。
登録人数 チーム全員がベンチに入り、エントリーは12名。
12名のメンバーは試合毎に登録することができる。
表彰 男子優勝チームに李相佰盃
女子優勝チームに優勝カップ
男女優勝チームに朝日新聞社楯及びウイニングボール
李 想白相佰 (이상백) 氏 について 李 想白相佰 (이상백) 氏 [り そうはく(イ・サンベク)]
1903年−1966年  朝鮮(大韓帝国)慶尚北道大邸 出身
日本バスケットボール界の育ての親 早稲田大学バスケットボール部の創部から始まり、日本協会、オリンピック正式種目決定へのはたらきかけなど、現在の日本バスケットボール界の礎を築き上げたのが故李相佰博士である。博士のバスケットボールに対する熱い情熱を現代に受け継ぐべく、博士の数々の偉業をここで振り返っておきたい。
学生たちで米国遠征を実施 名著「指導籠球の理論と實際」を発表 日本バスケットボール界の黎明期に、指導者としてだけにとどまらず、「日本バスケットボール協会」の設立を主導するなど、その発展に尽力した故李相佰博士。博士は1921年(大正10 年)早稲田大学高等学院に入学後、1927年(昭 和2年)早稲田大学文学部を経て、1932年(昭 和7年)まで同大学で社会学を研究。
学業に専念していた高等学院在学中の1923年(大正12年)、故浅野延秋氏、故中山克巳氏、故冨田毅郎氏(いずれも元日本バスケットボール協会最高顧問)とともに、「早稲田大学バスケットボール部」を創部し、選手としても活躍。1927年(昭和2年)には、かねてから準備を進めてきたアメリカ遠征を、プレイングマネージャーとして実施。外遊が極めて稀な時代に、学生たちが自力で海外遠征を行ったことは、当時センセーショナルな出来事として多くの関心を集めた。結果、アメリカの先進的なバスケットボール知識・技術が日本に伝播し、日本バスケットボール界に語り尽くせぬほどの財産をもたらしたのである。
卒業後は同校の監督として、学間問とスポーツの両立を命題に掲げ、早稲田大学チームの育成に尽力。チームは全日本選手権優勝などの輝かしい成績とともに、後の日本バスケットボール界を背負ってたつ、優秀な指導者たちも生み出すに至った。
こうした功績には博士の卓越した語学力が必要不可欠だったという。持ちまえの語学力を活かし、アメリカの技術を紹介、それらはいち早く早稲田大学チームで実践されていった。また、当時の日本バスケットボール界に多大な影響を及ぼした博士の名著、「指導籠球の理論と實際」(昭和5年/春陽堂書店)はアメリカの先進的なバスケットボール知識・技術が写真や図を用いて紹介されており、当時のコーチ、選手たちのバイブルとして広く愛読されていた。現在でも関係者の知るところにあり、まさに不杉朽の名作と呼ぶことができる。
バスケットボールをオリンピック正式種目へと導く 極東大会終了後の1930年(昭和5年)、日本バスケットボール界は、日本としてまとまったオフィシャル組織の必要性が改めて認識されるようになった。同年9月、博士を含む9人が発起人となり、「バスケットボール協会設立趣意書」が発せられる。また、同年12月には正式に体育協会への加盟が認可され、体協理事に故浅野延秋氏と博士の両名が選出。こうして、日本バスケットボール協会は設立、盤石な布陣が敷かれ活動を開始した。
1932年(昭和7年)ロサンゼルスオリンピックIOC総会で、博士をはじめとするJOCの尽力により、次大会のベルリンオリンピックからバスケットボールが正式種目に採用されることが決定。かくして、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックに日本は初出場することとなったのである。
さらに博士は、国際バスケットボール連盟(FIBA)より、日本人として初めて国際審判員 の資格を与えられ、本大会の審判に当たっている。当時、そのジャッジ内容はきわめて好評を博していたという。ちなみに本大会で日本は、 3回戦でメキシコのゾーンディフェンスにとまどいながらも善戦したが敗退している。
その後も博士は、1966年(昭和41年)に亡くなられるまで、活躍の場を広く韓国にも移し、ソウル大学教授(社会学)、KOC委員長、ヘルシンキ、メルボルン、ローマ、東京の各オリンピック韓国選手団長、さらにはIOC委員など重職も歴任された。
「李相佰杯争奪日韓学生バスケットボール大会」の開催 韓国バスケットボール協会は1976年(昭和51年)、博士の10周忌にあたり、その偉業を讃える事業として、博士の母校であり創設・育成に尽力した早稲田大学チームを同国へ招待。そして、延世大学、高麗大学、漢陽大学を含めた4 チームによるリーグ戦を実施。この追悼大会後、早稲田大学との定期交流戦を継続する案が企画された。しかし早稲田大学では、博士の崇高な志を受け継ぎ、一大学にとどまる交流戦ではなく、日韓両国学生の強化を願って学生の選抜チームによる定期交流戦を提案。両国バスケットボール協会の賛同のもと、1978年(昭和53年)に第1回大会を東京で実施。その後も毎年途切れることなく開催され、今日に至っている。こうして博士の志は日韓両国学生の、バスケットボールを通じた友好関係にまで発展していった。
「知育と体育をして教育となす」を文字通り実践してきた故李相佰博士。彼が情熱を注ぎ続けたバスケットボールに対するその理念を、こうした大会を通じて忘れずに受け継いでいくことが重要であることは間違いない。